「不可思議なること」をどのようにとらえていけばよいのか。

7月28日
 今日もエンユウ君は絵を書いてくれました。今日書いてくれたのはクレヨンで色がついています。写真の絵は、エンユウ君がはじめて私のもとに来てくれた時に、ちょうど筆を使っていたときで、手元にあった紙と筆を渡すと、描いた絵がこの絵でした。真ん中に「ひと」と書いた絵があります。その手には数珠がかけてあり、袈裟が描かれています。エンユウ君は、私の数珠や袈裟を指さして、これを書いたんだと示してくれました。
 ベトナムの子どもたちや俊カイ君の交流会の際につくられた「こぼとけ」さんにも興味を示して、机に並べてみていました。
エンユウ君の絵
 
 今日は、一周忌の法事で子どもさんを無くしたお母さんから聞いた話をを書きとめておきたいと思います。私がこんな話をしました。「お念仏を称えていると不思議なことばかりがおこります。仏教は不可思議なことを、そのまま不可思議なことだと受け止め行くことができるようになったとき、自然に信仰心が深まっていくと言うことなのではないかと思います。自分のはからいを捨て、全てを仏のはからいと受けとめていく、不可思議なことも、自分で解明できなければ信じられないというのではなく、不思議なことだけど仏様のはからいなんでしょうね…」と受けとめていく…というような話をしていて、聞かせてもらったお話です。
 お母さんの話。
 「私が度会町の方に用事があったので、娘が帰った時に裏口から入ることができるように鍵を開けておきました。二度確かめて、あいていることを確認して家をでました。ところが娘から家に入れないと電話がありました。裏口の鍵をあけてあるからというと、娘は。鍵がかかったままだというのです。おかしいなちゃんとあけてきたのに…と度会町から家まで戻ってきました。やはり娘のいうようにあけておいたはずの鍵が閉まっていました。不思議なことがあるものだ…と思っていると、一周忌のお参りに、息子のクラブ時代の監督さんがお参りにきてくださいました。度会町から戻ってこなければ、監督さんとお会いすることができなかったのです。息子が監督さんに会ってほしかったのかなぁーと思えてきます」というお話でした。

 私は、やはり、息子さんが、お母さんと監督さんとを会わせたかったのだと思います。監督さんがお参りに来てくださったときにお母さんにいてもらいたかったのだと思います。そのことを私たちに私たちにわかるような手続きを踏んで、実現させてくれたのだと思います。この不可思議なる現象を、私たちは、「仏のはからい」をいただいたのだ…と感謝して頭を下げてありがたくいただいていくことが大切なのではないかと思います。
 二度目に確かめた時、お母さんがまちがって鍵をかけてしまったから鍵がかかっていたんだと説明をするということが大事なのではなく、一周忌のお参りにきてくださった監督さんに、直接お礼も言え、お茶も差し上げることができたことを喜んで受けとめていく…、これが仏の心をいただいていくということなのではないかと思えるのです。

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