信念は他力・慈悲の中で信念となりうるのではないか…。

10月7日
 先々週の「辻説法」の中で、いきなりこんなことを感じて、語ったことが、いま、ボディーブローのように自分に効いてきている。「自力は、自力では、自力になれず、自力は、他力の中で自力たりえる」という思いとともに、信念もまた他力の中において受け止めるとき、持続力・継続力・実現力・復元力・行動力・連帯力を持った信念に発展していくことができると思えてきている。
 信念が、対立を生み決裂を生み、やがて排除したり排除されたりしていったのでは、信念の意味がない。信念に孤立は望ましくないのだ。迎合ではない、受容される信念の在り方が問われなければならない。
 信念を貫くという、どこに貫くのかが大切だ。貫くのは、自分の中に貫かねばならないのではないか。外に貫こうとするから矛盾や対立を生む。そして相手に対して、社会に対して、外に向かって、「信念のないやつだ…」「この信念がわからないのか…」「信念を理解してもらえない、悔しい、残念…」という気持ちが生じてくる。それは、自らの信念を挫折へと導いていく。考えてみれば、62年間の人生は、その繰り返しの連続ではなかったのかと思えてきた。いや、そうだった。
 どこかて゜それが変わった。まず、体から変わった。頭の整理はまだまだ、これからのようだ。断食が無理なく、柔軟に、成功して言っているのは、自分の中に貫こうとしたからだ。それは、自力に見えて、自力ではない。
 
「大きな力があって、自力を支えているのだ」「大きな力とは慈悲の力」「慈悲は阿弥陀仏の慈悲」

 信念の念は、念仏の念と捉えなおし、信念の信は信仰の信と受け止め、念仏の信仰の中に「大きな力」をいただいていく、信念こそ、自分の中に貫かれた信念であり、そして世界に開かれていく信念になりうるということを感じ出しているところだ。
 台湾の現在の仏教界、そしてベトナム戦争中のベトナムの仏教界にその信念があるのではないかと思えてきている。

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