「佛との縁結び往く明の春」

1月5日
椿
 1月1日、2日と92歳、90歳の方が往生され、それぞれの葬儀が、4日・5日におこなわれました。その一連の葬儀の中、つまり枕経、出棺回向・出棺・斎場回向、通夜、葬儀、納骨、背葬回向の中で、一言・二言と語ってきたことの中に、「これは大切なことだ…」と気付かされたことがありました。
 その一つが、引導の中で餞別の一句として伝えさせていただいた「佛との縁結び往く明の春」でした。
まさに今、葬儀で送られる故人は、自らの死をもって私たちに「佛との縁」をつなぎ残してくれているのだということを参列者・親族に伝え切らなければならないという役割を感じたのです。
 お経の中で「どうぞごいっしょに…」と南無阿弥陀仏を共に称えていただきますが、それをしっかりとした声に導いていくことが僧侶の役割ではないのか…。南無阿弥陀仏と称えることで、参列者・親族は「佛との縁」を実感できていくのではないか。実感にいたらなくとも、声に出したことで『縁が結ばれたことになる』と確信したのです。そしてそのことが参列者・親族のこれからの人生に大きな「ちから」になるのであれば、私たち僧侶は、なんのためらいも躊躇もなく、「どうぞごいっしょに」「どうぞ大きな声で」「いただいたご縁を大切に」「お念仏は私たちの生きる力につながります」「お念仏を称えれば、仏と私とが一つになります」…、いろいろな表現を駆使して、声に出してお念仏を称えてもらえるように勧めていったのです。
 もう一つあります。一つの葬儀は、近所の方々が正月を返上して、出会いで通夜から葬儀までを、昔のままの繋がりの中で、自宅と寺とを行き来しながら葬儀を行いました。実に様々な仕事があります。テントをはることから受付の準備、お茶の接待からお菓子・食事の準備…。旗をつくったり、縄を編んだり、墓をほったり、鉦を叩いたり…、二日間、ゆっくりとした時間が流れるように葬儀が展開されていきます。最後の背葬回向では、その方々の名前が本尊前で読みあげられます。親族の名前と合わせて、みんな一蓮托生・同行人です。年寄りから若い人、男の人から女の人…一家に一人は出合って役割をになって行きます。終わった後のお酒を飲みすぎて二日酔いになる人もでてきますが、長く地域で育ち合ってきた顔見知りの人達が、まだ若い戸主やお嫁さんをも巻き込んで、葬儀を動かしていく…。昔はあたりまえのことだった姿です。しかし、いま、この姿もまた、亡くなっていく方が私たちに残してくれた「縁」なのではないでしょうか。
 負担がかかりすぎてはいけません。しかし、このようなボランティアを「この正月の忙しい時に…」と頼む方が遠慮したり、頼まれる方が愚痴や文句をいったりするのではなく、「こんなときはお互いさま」とすべてを差し置いて、葬儀に結集していく「こころ」。これが失われてはならない「こころ」。いや復興・再生させていかなければならない「こころ」なのではないか。
 慶蔵院には、これがある。これを守り、葬儀ボランティア・「お互いさま」ボランティアとして、「助けあうことが当たり前」という「ともいき」を守り・広げ・現代的に発展させていく…。この核にこそ、寺がならなければならないと思いました。
 家族葬が強調される時代ですが、これは「縁切りの葬儀」だと思いました。亡くなっていく方が、せっかく薄れかかっている縁をつなぎとめようと、自らの身体をもってしめしてくれようとしていることに耳をかさない行為ではないかと思いました。
 家族葬儀ではなく、「ともいき葬儀」へと、どのように地域をコーディネイトしつつ、ボランティア葬儀を寺を中心にして再生・創造していきたいものだと思います。
 こんな思いをいただいた、ありがたいお正月のお葬式でした。

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