第37回「辻説法」に立って…

1月18日
 今日は、8時から第37回「辻説法」、10時から第125回写経会、7時半から第21回男性詠唱隊の行事がつづきました。「辻説法」でこんな話題を取り上げました。東日本大震災で一人も犠牲を出さなかった学校の子どもが語っていました。
「おじいちゃんが家にいろといったけど、いったん高台に逃げてまたもどってくることにするからと家からにげたので助かった」と。
 おじいちゃんは、私たちくらいの年代だったのだと思います。おじいちゃん自身の経験知からすれば、家の中にいたほうが安全だと判断したのでしょう。しかし子どもは、いったん高台ににげる選択をしました。これは、教育の力です。教育は一人の経験知を超えた人類の蓄積された英知を次の世代に引き継ぐ営みです。その力がはっきされたからこそ、一人の子どもも犠牲を出さなかったのだと思います。先祖からずっと引き継がれてきた智恵・真実・真理を子どもたちに伝える教育を大切にしていかなければなりません。
 中野善英上人は、物を大事にされた方であったようです。道に草鞋が落ちていると、それを拾って田圃に投げ込みます。草履が肥やしになるというのです。出された食べ物は、箸をつけたものは残すことなく全部いただき、食べられないものには箸をつけようとしなかったといいます。お風呂に入ると、体を洗ったところだけがぬれているけれども、どこにも水が飛び散っていないというのです。お念仏をしながら、静かに考えをまとめて話してくださったそうです。
 今日の中野善英上人のお言葉は、「一本のタバコ」。

「タバコは、身を煙にして、自分の生命を主人に譲ったまま、潔く消えてゆく。跡には、灰一つも、碌々残っておらぬ。唯プーンと、いい薫りが部屋の中に匂っているだけだ。人生も一服のタバコである。私たちも一服のタバコとなって役立つことを、自ら悦ばねばいかぬ。
 姿は消えたか知らぬが、しかし、自分のエネルギーは、立派に社会の中に残って、吸った人が、「アッ、お陰で頭が頭がハッキリした、これで又、「元気出るわい」と喜んで働いて呉れるような貢献をしたなら、死んでも本望である。消えて甲斐があった。だから死ぬのがコワイのでない。死ぬまでに「立派なタバコ」になれたかどうかが問題である。湿ったタバコ。まづいタバコ。火はつけられたが、一口も吸われぬ内に、灰になってしまったようなタバコはゼロである。
 釈尊やイエスは、一人で何百億の人間を何千年間既に動かして来たじゃないか。だからウソではない。
 故に真に、「一本のタバコになれたら、その人は神である。
 粉の世の中には、金儲けのためバカりに出てきたのでない。如何に世のためになれたかということが大切である。金を掴んだだけで死ぬのなら自慢にはならぬ。」


 私たちはなかなか、すべてを無になるまで捧げつくすことは出来ないでしょう。しかし、往生はねがうことはできる。往生させていただいて成仏し、仏としての慈悲をもってすれば、善英上人のいわれるタバコにもなれるというものです。ならは、いまからでも一歩いっぽとタバコのようになれる自己を求めて、南無阿弥陀仏と称え続けていく人生もまた、すばらいし幸せな人生へとつながっていくのではないでしょうか。

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