「かすかな光へ」の映画上映にどう取り組むか

2月5日
 太田尭著「かすかな光へと歩む」の中に次のような文章があります。

ふと我にかえると、現実は無機物に囲い込まれた荒涼たる世界を、愛に飢えた人影がバラバラに生きている。そういう風景が幻のように見えるのです。私はその現実の中に垣間見えるかすかな光への道を手さぐりで求めようとしました。それは夢のようなもの、あこがれにすぎないのかもしれません。でも、そのあこがれ、夢なしには私にはどう生きるかの手がかりを見出すことできないのです。その手がかりを見つけるために、私は自然から預かった生命という摩訶不思議なものに注目してみました。」 

 ここに語られている「荒涼たる世界」・「バラバラの愛に飢えた人影」は、これから「てらこや塾」が手をさしのべようとしている目の前の「現実」そのものであると思えます。太田先生は、その現実の中から「垣間見えるかすかな光」に向かって歩んでいく夢のある、手さぐりの生き方によって、「現実」を乗り越えて進む手がかりが見えてくるのではないか。そこで注目しなければならないことは「自然から預かった生命という摩訶不思議なもの」だ…と語っておられます。

 私は、いま「てらこや塾」が実践的課題として挑戦しつつあること、そしてさらに挑戦しようと見通していることは、まさに「手さぐり」であるけれども、太田先生がめざす「かすかな光へ」向かっての歩みであると思うのです。

 私たち「てらこや塾」にできることはすべてやる。どこまでも一人の子・一人の外国人を「護る」・「見守る」・「待つ」・「寄り添う」・「育む」という「慈悲」の追求です。それは、きわめて困難な道です。「慈悲」という「仏の心」の実践が、凡夫なる私たちにやすやすとできるはずがない…、まさに不可能への無謀なる挑戦と言われてもしかたがないような挑戦です。

 しかし、私たちにも慈悲心という「かすかな光」があると思うのです。ですから「てらこや塾」の外に向かっての「慈悲」の追求は、自らの内に向かっての「かすかな光の慈悲心をより大きな慈悲心へと育てていく挑戦」であると思うのです。

 厳しい現実の壁に、軟弱な私たちの「慈悲心」など、すぐに「愚痴」と「不満」と「怒り」と「非難」によって、もろくも崩壊させられ続けています。しかし、それは一時のこと。それは凡夫の倣い。あたりまえのこと、それを知っていてあえて私たちは「慈悲」の追求をしているのだ…と、顔をあげて、私たちは、また、歩みを止めることなく「かすかな光へ」と立ち上がり、「護り、見守り、待って、寄り添い、育むという慈悲の追求」を自らの「慈悲の心」を育て上げていく「慈悲道」・求道として、「かすかな光」を頼りに、歩み続けようとしているのではないでしょうか。

 このことが太田先生の思いと「ひとつ」であると思えてくるのです。
というわけで、「かすかな光へ」の太田尭、93歳の夢とあこがれを語る映画を観てみたいと思います。いつ、と゜のように上映に取り組むかについては、ちょうど進富座を残す運動とも関連してくることかもしれません。
 あわてずに、ゆっくりと考えて、時期を計りたいと思っています。

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