台湾で考えたこと その1 「バシー海峡と潮音寺」

3月12日
 日本に帰ったらすぐにお葬式が入りました。待っていてくれたように…。今日、6時からお通夜。もどって7時半から9時半まで「無言塾」、2名の生徒が参加。私は、そのそばで、お彼岸のお塔婆を書いていました。昼間の小学生の部は、4時からでした。4名の3年生の子どもたちが初めて参加。さっきまで、境内で大暴れしていた4人が、「では、静かに座ります。用意はできましたか。いいですか。では、静座。」と声をかけると、椅子にきちんと座って、子ども会の時のように姿勢をただしています。
「それでは、無言塾を開始します。頑張りましょう。はじめ」…。4人は、黙々と鉛筆を走らせて、自分で選んだ勉強を進めていきました。4時半からお参りがありましたから、私が一緒にいれたのは、わずかに20分間です。「どうする、おっさんは行くけど、まだ続けることできるの。じゃ、電気消しておいてね」と子どもたちは、まだ自分たちで勉強を続けていました。

 台湾の南端からフィリピンまでの海域をバシー海峡といいます。1944年の4月から南方戦線増援のため、たくさんの将兵が日本や大陸から輸送をされました。しかし連合国軍潜水艦によって輸送船はことごとく撃沈され、20万人とも25万人ともいわれる戦死者をだしたのです。台湾の南端の海岸には、1万とも2万ともといわれる死体が流れ着いたとの事です。現地の人たちが弔ってくれたとのことです。しかし、この事実は、太平洋戦史の中でもあまり知られていません。私も台湾に行くまで知りませんでした。
 それは、戦闘ではなくて兵員輸送途上の惨事として扱われてきたからのようです。一切報道もされなかったといいます。
 1944年8月10日「ヒ71船団」という名の輸送船団20隻、空母1隻をふくむ護衛艦8隻の大船団が、バシー海峡で潜水艦攻撃を受け、7隻が沈められます。
 このとき輸送船「玉津丸」の乗組員4755名が戦死、救助されたのは65名。その中に12日間バシー海峡を筏で漂流し、最後たった一人で救助された人が中嶋秀次さんがいました。
 その中嶋さんは「歌集バシー海峡」を著しておられます。その本は、すでに絶版になっているようです。
今回の旅で長岡進氏の手による「中嶋秀次作『歌集バシー海峡』鑑賞ノート」を手に入れました。
 中嶋さんは、戦後、自費で慰霊の寺「潮音寺」を台湾の南端の岬、猫鼻頭に建立したのです。今回、私たちは、この『潮音寺』で慰霊の法要を行いました。
 長岡さんによる鑑賞ノートには、中嶋さんの『思い』が歌の鑑賞という形をとって表現されており、心を打つものがあります。

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