中野善英上人四十七回忌日法要

4月15日

山桜の開花
 昨晩から比叡山坂本の松禅院に山本さん・濱口さんと一緒に上りました。中野善英上人四十七回忌の法要に参加するためです。寒いだろうと寝袋も持って行きましたが正解でした。朝五時過ぎの琵琶湖に上るご来光をいただきながらの大念仏、体操、安楽律院までの散策…と法要が始まるまでのゆったりとした時間を過ごすこともできました。
 朝がゆをいただいたあとの少しの時間、私が法話をすることになりました。
何を語ろうかといつもの辻説法の感覚でテーマを考えたことは、こんなことでした。
「無宗教と言っている人は、本当に無宗教なのか…。宗教に頼る人は弱い人間で、自立下人間は無宗教になるというのか。自立と宗教とは対立するのか。宗教によりかかりたくないと思う人は進歩的であって、宗教によりかかっているような人は古い人間なのか。無宗教は新しく、宗教は古いのか」

 茨木のり子の詩に「よりかからず」という詩があります。

もはや できあいの思想にはよりかかりたくない。
もはや できあいの宗教にはよりかかりたくない。
もはや できあいの学問にはよりかかりたくない。
いかなる権威にもよりかかりたくない
ながく生きて 心底学んだのはそれぐらい 自分の耳目
自分の二本足のみで立っていて なに不都合のことやある
よりかかるとすれば それは 椅子の背もたれだけ

 「できあいの宗教」を既成の宗教と置き換えてもいいかもしれない。
しかし「宗教とは、よりかかるものなのだろうか」。「よりかかる宗教観をこそ問題にすべきなのではないだろうか」…むしろよりかかることを求める宗教からは無宗教でいいのではないか。
 
 善英上人の「如来とともに一人」の一人は、自立した二本足で立った私なのではないか。それはよりかかったわたしなどではない。
 
 宗教心をゼロにしたら人間といえるのだろうか。「こころ」や「魂」や「崇高」が宗教を無くして語り、求めることはできるのだろうか。
 
 そんなことを考えながら法話を行いました。

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生かされているこの「いのち」

 自分の足で立っているといっても、その生かされている「いのち」にこころを寄せることがなかったら、やはりあぶなっかしいのが私たちなのではないかと思います。
 濱口さんのような『気づき』が大切なのだと思います。
私も、道を追求していきたいと思います。

松禅院で考えたこと

カイロプラクティックの治療をはじめて3カ月が過ぎ、少しづつ体がよくなっているのを実感しています。それは体が楽になってきて、気分が軽く感じるようになってきているのです。
久しぶりの松禅院、大念仏、飯室谷の自然の中で、こんなことを考えました。それは、自分の体はひとつ。この体は、自分のものであるが、自分だけのものではない。みなさんから教わったことを基にして考えてみると、如来とともに一人、この体も如来とともに一つの体、だからどんなに不自由な体になっても、大切にしなければならない。それが、奇跡ともいえるように回復しているのだから、なおさらのことである。この体を持って生かされていることに、素直にありがたいと思えるのです。今日はこんなことを考えながらすがすがしい気分で帰ってきました。
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